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平家語物 (上)(中)(下)―マンガ日本の古典 (10) (11) (12) [歴史]

絵は横山大輝。これもぴったりですねえ。

冒頭は有名な「祇園精舎の・・・塵に同じ」と見開きの京の絵からはじまります。多分京だと思う。
そして平清盛の六波羅の家へズームイン。
物語は清盛が50歳で太政大臣一位になったところからはじまる。
ここで、武士の歴史のおさらい。
400年続いた藤原貴族政治のなかで武士は地下人とよばれ、わずかの領地をもらって貴族の番犬のような存在だった。
武士のなかでも東の源氏、西の平家は名門だったが、どちらかというと源氏のほうが摂関家にきにいられていて勢力は強かった。しかし保元、平治の乱で敗れたほうに味方したため勢力がよわまった。
保元の乱のあと、関白の義兄・藤原信頼が大将の位をもとめてきたのを信西が断り、それを恨んだ信頼が源義朝をつかって信西を討ち取り、帝と上皇を閉じ込めた。しかし清盛が二人をうちとり、これから清盛の出世が始まる。このとき源義朝の子どもたちも殺されるところだったが、清盛の母のとりなしで頼朝は伊豆へ、そのほかの子どもたちは出家させることにしてそれぞれ違う寺に預けた。鞍馬寺に預けられたのが義経である。
清盛の妻時子の妹慈子が後白河上皇の妻になり皇子を生んでいたことも影響していたらしい。清盛の出世は藤原氏っぽいんだね。

清盛が太政大臣になって4か月、病に倒れた。そのころ二条天皇は崩御、二歳の六条天皇が即位していた。清盛に万が一のことがあってはと考えた後白河上皇は、慈子の産んだ皇子を即位させ高倉天皇とした。この皇子は第7子であったが慈子を寵愛していた後白河上皇の意向である。しかし、清盛は回復し、長寿を願って仏門に入り清盛入道相国と呼ばれることになる。後白河上皇も仏門にはいり法皇となった。

平重盛の長男が摂政の車が通るとき馬からおりなかったので、乱暴をうけ、清盛が激怒したが、重盛は「非はこちらにある」と諭した。しかし清盛は反撃をしてしまう。すると重盛は実行者を解雇して、息子を謹慎させた。みな重盛の公平な裁きに感心したという。しかし、平家の横暴を嫌う貴族たちも大勢いた。
高倉天皇は清盛の娘徳子と結婚。徳子は皇后になる。

平家に反発する貴族たちが鹿谷(ししのたに)で法皇をまじえて平家を討つ密議をしていたが、計画の途中で比叡山とのトラブルが発生。強訴(天皇の祖霊をまつる神輿をかついだ僧兵が朝廷や摂関家へおしかけること)に発展するが、これを平家の武士たちが撃退。それをみた密議に参加していた多田蔵人行綱が清盛に陰謀を密告。西光らが捕まり処刑された。陰謀に加担していた重盛の舅は一度は重盛に救われるが流刑先で亡くなる。
清盛は法皇も軟禁しようとするが重盛に止められる。そして兵を自分のところへ集めたので清盛は「これでは院をせめるなどできない。よくできた息子だ」と、法皇の軟禁を諦め、福原の街づくりに力をいれることにする。清盛は宋との貿易に力をいれていたのである。

清盛の娘徳子は皇子を生む。このことで清盛と院との勢力争いは激しくなる。
さらに重盛が43歳の若さで亡くなり、院と清盛の関係は悪化。ついに清盛はクーデターをおこし関白や太政大臣らは幽閉され、法皇も鳥羽の離宮に幽閉された。
高倉上皇は20歳で譲位。三歳の安徳天皇が即位する。高倉上皇はまず平家の守り神厳島神社に社参し、清盛の機嫌をとり、父である後白河法皇の幽閉をといてもらった。

後白河上皇の第二皇子以仁(もちひと)親王は、高倉上皇の母慈子にうとまれ、30歳をむかえてもひっそり暮らしていた。かれに平家討伐をもちかけたのは源三位入道頼政。かれは源氏でありながら平治の乱のときに朝廷に弓はひけないと平家方にくわわった源氏である。そのまま平家の世の中で出世していたが、70歳をすぎてついに反旗をひるがえしたのだ。理由は息子が清盛の三男宗盛に侮辱されたためである。親王は頼政に説得され平家討伐の令旨をだす。各地の源氏はよろこんで立ち上がったが、令旨がばれて親王は女装して園城寺逃げ出す。園城寺は比叡山や興福寺に助けをもとめる。興福寺は賛同してくれたが比叡山は断ってきた。源入道頼政と息子たちも親王を守ろうとするが、源氏の武士たちが集まる前に平家の討伐軍によって反乱軍は討ち取られてしまう。親王を逃がして覚悟して自害した。親王も興福寺まで逃げきれず殺される。

この乱のあと清盛は園城寺を攻め焼いてしまう。そして福原に遷都を命じる。比叡山と興福寺の動向を気にしてのことだった。貴族たちは驚いたが仕方なく従い、京は廃墟と化してしまう。福原では法皇は三方壁の部屋にいれられていたという。
福原の清盛のところへ源氏の棟梁頼朝が決起したとの情報がはいる。清盛は3万の軍勢をさしむけるが、坂東武者の武勇を恐れていた平家は水鳥の羽音を源氏の奇襲だと思って逃げかえってしまう。頼朝は平家は撤退したが兵はうしなっていないこと、また朝敵になることをおそれて追撃しなかった。
清盛にとってははじめての負け戦だった。

比叡山のすすめで清盛は京へ遷都することにする。比叡山が興福寺との間をとりもつと約束したからである。しかし興福寺は話し合いに応じなかったので清盛は兵をおくり東大寺など南都一帯が炎上。
心労のためか高倉上皇が崩御。父後白河法皇と、息子安徳天皇の板挟みになっていた人だった。

木曽義仲は、頼朝のいとこにあたる源氏ではあるが、内輪もめから頼朝との仲は悪かった。信濃で兵をあげた。これに続いて九州、四国でも源氏に味方する兵がでていると報告がはいる。宗盛が追討軍を動かそうとしているとき清盛が危篤になり中止、その後清盛は64歳で世を去る。

越後の城四郎助茂(じょうのしろうすけもち)は平家の要請で木曽義仲を追討する4万の兵をおこすが、3000の義仲軍は平家の赤旗で近づいて一気に相手を蹴散らし追い返した。
これをきいて周囲の兵があつまり義仲の軍は5万にふくれあがった。
平家は10万の追討軍をおくった。義仲は5万で迎え討ち、山の地形を利用して、矢合戦で平家の注意をひいているうちに兵の一部に背後にまわし、夜に鬨の声をあげさせて慌てた平家軍を倶利伽羅谷へ追い込んだ。あわてた平家軍は次々と谷におちて敗れた。

木曾義仲が京へくるときいて平家は福原へ向かう。しかし後白河法皇は鞍馬寺へ逃げ込み、平家は連れ出すことができなかった。安徳天皇と徳子、三種の神器などをもって平家は逃げ出した。武者のなかには妻子を京に残したものも多かった。
3年間放置されていた福原はあれはてていた。そこで船をしたてて太宰府にいくことにした。このとき7000騎ほどになっていたという。

木曾義仲が京にはいり法皇は御所にもどった。義仲は従五位佐馬頭になり、他の源氏の諸将も平家から没収した領地や位をもらった。しかし京にはいった兵たちは略奪をおこなったので人々は苦しんだ。法皇や貴族たちは義仲を平家討伐にむかわせようとしたが、三種の神器が平家方にあるため困っていた。法皇は孫の四宮を後鳥羽天皇として即位させる。これで安徳天皇と二人の天皇がたつことになった。

平家は太宰府に逃れたが法皇の命令をもった使者がきたため、昔平家の家来だったものたちも平家討伐にまわるようになり、平家は戦おうとしたが九州の各地から相手方の兵があつまってきたためやむおえず箱崎の津に撤退した。ずぶぬれになり女官は裸足で歩くようなありさまだった。

その後海上に逃れたが、上陸しようにも敵が来るとの知らせばかりでうまくいかない。重盛の三男は悲観して笛を吹いてから入水自殺してしまう。
長門の国(山口県)は新中納言知盛は清盛の四男の領地である。ここの目代が平家の窮状をしって大船や衣服・弓矢などを用意してくれて、平家は讃岐(香川県)の屋島に向かう。そして各地の平家に反攻の使者を送った。平家はたちあがり山陽道8か国、南海道6か国を討ち取った。
義仲は7000騎の平家討伐軍を屋島に送ったが舟の合戦に不慣れな源氏は大敗する。
義仲は1万の兵をひきいて自分で平家討伐へ向かった。それにさきだって征夷大将軍にしてほしいと法皇に頼んでいた。それをきいた法皇は僧兵2万をおくって義仲を追討しようとする。怒った義仲は京へ引き返し僧兵をけちらして法皇、天皇・公卿たちを幽閉する。そして平家と手をくんで頼朝に対抗しようと福原の平家に使者をおくるが、平家に「自分たちは官軍だから、そっちが降伏してこい」といわれて怒る。

木曾義仲に襲われた法皇は頼朝に義仲討伐の使者をだしていた。
頼朝は異母弟の範頼・義経二人に6万の兵を与えて義仲討伐にむかわせる。二人には武士が貴族の飼い犬にならぬよう朝廷から位をもらわないようにと言い含めた。
義仲は宇治川で迎え撃ったが敗れ、法皇を連れ出そうとするも義経にさきまわりされ万策尽きて討ち取られた。このとき巴御前も活躍していた。

法皇は範頼と義経に平家討伐を命じるが、二人は頼朝の命令で院宣をもらうようにいわれていると伝え、手にいれる。平家には天皇と三種の神器があるので、朝敵にされないためである。
義経は夜をおして強行軍をおこない平家の陣を襲った。合戦は明日と油断していた平家は驚いて敗走。義経はさらに一の谷の背後、鵯越をおりて平家をけちらした。このことで範頼率いる本隊は、平家をはさみうちできる状態になり、驚いた平家は海に逃れようと敗走。清盛の五男重衡が捕らえられる。熊谷次郎直実が息子と同じ年頃の若武者を手にかけようとして躊躇するのもこの場面。この若武者は清盛の異母弟・経盛の息子敦盛だった。
法皇は重衡を返す代わりに三種の神器を返すようにいうが、平家は断り、重衡は鎌倉に送られた。それを聞いた四国の維盛(重盛の子どもで27歳)は先を悲観して出家したのち那智の沖で入水。家来二人が殉死した。

頼朝の命令で範頼は山陽道から義経は四国の屋島を攻めるようにいわれた。
義経は摂津に船を用意したが悪天候でかなり破損。それでも義経は夜中に船頭を脅して出発。勝浦まで3日かかる航路を5時間で着いた。たった70騎だったが、屋島の1000騎の平家を夜襲して海に追い出した。朝になって相手の数を知った平家がもどってくるが、命知らずの70騎が戦っているうちに四国の各所から兵があつまりだしたので、援軍を恐れた平家は逃げ出した。那須与一が船の扇を射抜く話はこのときである。
結局平家は長門をめざして逃げて行った。
義経が船を出す前に、味方の武将と口論になり、それから頼朝に告げ口をされるようになった。頼朝は義経の無謀ぶりを法皇にとりいるためではないかと疑うようになる。

義経は船での戦のために熊野水軍の力を借りることにする。弁慶が昔熊野水軍にいたのである。水軍とは当時の海賊である。熊野水軍の協力を得て義経は200艘の軍船で平家を追い、周防で範頼と合流した。しかし勝手に熊野水軍と交渉したことも頼朝の怒りを買うことになった。
源氏の旗色がよいと判断した兵力が集合し、源氏の船は3000艘まで増えていた。
元暦二年(1185)3月24日、源氏は長門壇之浦での決戦に向かう。平家は1000艘の船で迎え撃った。矢をあわせ、その後相手の軍船へ切り込むのである。最後を悟った安徳天皇と徳子、そして祖母の時子は次々と入水。三種の神器も海に沈められそうになった。徳子と神器の一部は源氏によって救い出された。宝剣だけはみつからなかったので、伊勢のものを宝剣とした。
能登の守教経は平家の武者としてすばらしい働きをしていたが、知盛があまり罪をつくらぬようにというので、源氏の武者と組合をして二人を道連れに入水した。すべてを見届けた知盛も入水。
総大将の宗盛は逡巡しているところを部下につきおとされたが、おもりをつけていなかったので浮いてしまい、捕らえられた。そして捕らえられた男たち38名は京を引き回され鎌倉に送られて打ち首になった。

徳子は尼になり平家の菩提を弔った。
平家滅亡の4か月後には頼朝は義経追討令を出す。



平家物語(上)―マンガ日本の古典 (10)

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  • 作者: 横山 光輝
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1995/01
  • メディア: 単行本



平家物語(中)―マンガ日本の古典 (11)

平家物語(中)―マンガ日本の古典 (11)

  • 作者: 横山 光輝
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1995/09
  • メディア: 単行本



平家物語(下)―マンガ日本の古典 (12)

平家物語(下)―マンガ日本の古典 (12)

  • 作者: 横山 光輝
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1996/03
  • メディア: 単行本



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