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レオナルド・ダ・ヴィンチ (小学館版学習まんが人物館) [人]

レオナルド・ダヴィンチの代表的な絵画の写真とその特徴
モナ・リザ(ラ・ジョコンダ) スフマート技法
師匠のヴェロッキオの「キリストの洗礼」に描いた二人の天使 師匠はもう絵はかかないといったという逸話がある。
受胎告知 天使の羽根がそれまでと違って鳥の羽根のようにリアル、植物もリアル
最後の晩餐 遠近法
筋肉のスケッチ、城壁を打ち破るための巨大な石弓の設計、ヘリコプターのスケッチ

1452年、レオナルドはイタリア中部トスカーナ地方のヴィンチ村に生まれた。
父親は村で公証人をしていたセル・ピエロ。祖父母とおじさんと、継母と暮らしていた。
母親は身分が低く、父親とは結婚していなかったので、レオナルドは長男ではあるが、父親の後継者になる資格がないとみなされていて、13歳ごろにフィレンツェのヴェロッキオの工房にいれられる。
父親は野心的な人物で、身分のある女性と結婚して出世がしたかったらしい、結局4回結婚して10男2女をのこしたが、レオナルドとの交流はなかった。
本当の母親は同じ村にいたが、話すことは禁じられ、のちに他に嫁いだが夫をなくし貧しい生活をしていたのを、レオナルドは自分のところに呼び寄せている。ただ身分が違うというので家政婦という名目にして二年間一緒にくらした。

ヴェロッキオのところでは、雑用からはじめて、27歳で独立するまでを過ごした。
このころの芸術家は、教会や権力者、お金持ちの依頼で絵をかいたり彫刻をしたり、家具や工芸品をつくるなど、なんでもやっていた。
作品は、過去の書き方にのっとって依頼者の好みにあわせてつくることが大切だった。
天使の羽根は金色でかいて、頭にわっかをのせるなどおこなわれていた。
しかし、レオナルドは現実の花や鳥の羽根を詳細に観察スケッチして、それを絵の世界に持ち込んだ。

フィレンツェで独立して「東方三博士の礼拝」を書き始めるが、未完のままルドヴィコ・スファルツァに使えるため1482年、30歳のときミラノにいってしまう。
漫画ではローマのシスティーナ礼拝堂の仕事に選出されなかったので、がっかりしてフィレンツェを去ったみたいにかかれていたし、後ろの解説ではロレンツォ・デ・メディチがフィレンツェの芸術家をイタリア各地に送り出すのに熱心だったからともいわれている。
とにかく、レオナルドの方から自分をスファルツァに売り込んだのは確かで、その際軍事も詳しくて兵器も作れると書いたので、そこから猛勉強して、兵器の設計図とかも書いたようだ。ミラノではペストの流行をみて、上下水道を分ける都市計画を提案したりしている。どれもお金がかかりすぎると実現はしていない。
また騎馬像をつくろうとしたが戦争がおきて青銅が兵器につかわれてしまったのでミニチュアしか完成しなかった。
スファルツァの息子がナポリ王の娘と結婚したときの披露宴では「天国の祝祭」という出し物を披露、回転する舞台などを使ったおおがかりなもので、これは大評判になったらしい。
ミラノでは「最後の晩餐」を完成させている。
1499年、47歳のとき、フランス軍がミラノを占領したため、ミラノを去った。ミラノを占領したルイ12世は「最後の晩餐」を見て、感動し、のちにレオナルドを呼び寄せている。

一度フィレンツェに戻るが、メディチ家が追放されて混乱しており、1502年、50歳のときローマ教皇アレクサンデル6世の息子、チェーザレ・ボルジアに軍事顧問として雇われ、戦のための地図をつくったり、チェーザレの居城イーモラ城の改良工事を行ったりした。しかし1年ほどでチェーザレのところを離れている。理由はよくわかない。

1503年、51歳のとき、フィレンツェに戻り、市の依頼で「アンギリアーリの戦い」を描き始める。反対側の壁にはミケランジェロが「カッシーナの戦い」を描いており、夢の競演となるはずだったが、レオナルドは新しい方法を試して失敗し、絵は完成しなかったし、ミケランジェロは「ダビデ像」に忙しく、その後教皇の墓をつくりにいってしまい、両方とも絵は完成しなかった。
このころラフェエロが聖母子の描き方を教えてくれと工房にくるようになった。モナ・リザの絵をみて感動し、いきいきとした人物画を教わるならレオナルドだと絶賛する。

1506年、54歳のとき、ミラノからフランス総督シャルル・ダンボワーズの誘いがきて、最初は自分がつくった騎馬像を作ったフランス人といっていたが、いってみるとすごい歓迎で、ここで人体の解剖許可などももらっている。パドヴァ大学の20代の解剖学者に弟子入りしたいと説得したが、共同で著書をだす約束を果たさないうちに相手がしんでしまった。
アルプスを旅行して風景画を残しているが、お金にならない風景画をかく芸術家はいなかったので、レオナルドがはじめてだ。アルプスで貝のはいった地層をみつけ、ノアの洪水一度きりだったら、そうなならないなど推理していたが、それをいうと教会ににらまれるので弟子にしかいわなかったようだ。

1511年ダンボワーズ総督が死去して、スイスが攻めてきたのでフランスは撤退。レオナルドはッミラノを離れ、かつてフィレンツェを支配したメディチ家のジュリアーノ・ド・メディチから招かれてヴァチカンにいく。
ラファエロとも再会。かれのアテネの学堂のプラトンはレオナルドがモデルだという。システィーナ礼拝堂にはミケランジェロの天井画もあった。
レオナルドは賑やかなローマの暮らしはあまり好きではなかったようだ。

1516年再びミラノを占領したフランスの国王フランソワ1世の誘いで、フランス中西部のアンボワーズにいく・
国王はレオナルドにはほとんどなにも注文せず、ただ話し相手としていてくれと依頼、漫画では二人がコロンブスが新大陸を発見した話や、早くすすめる船の話、月や太陽がまりのような形をしていることなどを話している様子がかかれていた。「洗礼者ヨハネ」はここでかきあげられた。

1519年、弟子のメルツィにノートやスケッチをすべてたくし、鳥かごのとりを放してやってから息をひきとった。
メルツィの死後はそれらは行方不明となり墓も荒らされて遺骨のゆくえもわからないという。

レオナルドの偉大さは、名画や発明でなく、世の中の不思議なことを、ときあかして真理を知ろうとした最初の人だからとしめくくっていた。
また、教育をうけなかったので、ラテン語などを独学で学んでいた努力の人でもあった。
ミケランジェロやラファエロなど同時代の芸術家に対してもライバルというより尊敬をもって対応したような印象をうけたけど、漫画の解釈かも。


レオナルド・ダ・ヴィンチ (小学館版学習まんが人物館)

レオナルド・ダ・ヴィンチ (小学館版学習まんが人物館)

  • 作者: 小林たつよし
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2010/09/29
  • メディア: 単行本



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シートン (学習漫画 世界の伝記) [人]

読み聞かせ時間 小6小4男子、自分で読んで25分
ウケ度 最後までよんでいたし、熱心だったから面白かったんじゃないかな、内容についても話していたし
印象度 パートタイムな人だったのね。今でもこういう人いるよね

アーネスト・T・シートンは1860年イギリスのサウスシールズで、11番目の子どもとしてうまれました。
母親が丈夫な子供を産むため毎日海にはいっていて、おぼれかけたショックでうまれたとかいてありました。

父親は大きな船を10隻以上もつ貿易商で家は裕福でした。
しかし、船が海賊に襲われたり沈んだりして、事業がうまくいかなくなったため、父親はカナダで開拓民になることを決意、1866年一家はカナダのリンジー郊外の原生林に移り住みます。

小さいころからオオカミの話が大好きだったアーネストはここで、兄たちと大自然にかこまれのびのび育ちます。兄たちは母方の祖先の名高い狼猟師にあこがれてハンターになりたがっていました。

しかし、父母は森の暮らしになじめず、1870年には一家はトロントに移り、父は会計士の仕事につきます。
学校ではいじめられると、どんなに不利でも反撃して傷だらけになったり、先生が弱い者いじめをするのをみて批判する絵をかくなど、正義感が強く負けず嫌いだったようです。
負けず嫌いの性格から勉強も頑張ってクラスで1位になり、トロントの公立中学校の上位12名に選出されて2年間の奨学金つきでトロント大学の付属高校に合格。14歳でした。

高校にはいってからも、自然を愛し、よく郊外にでかけ、ネイティブ・アメリカンの生活にあこがれて高校の友達とネイティブ・アメリカンのグループを作って活動。家の下に穴をあけ、家を傾けて母親に怒られたりしたようです。また郊外に自分で家をたててそこでずっと自然に囲まれて暮らしたいなどと考えていました。しかし、この家はのちに燃やされてしまいます。

進路としては博物学を望んでいましたが、父親が食えないからも大反対。奨学金で大学に行こうとしますが、体を壊してしまい断念します。静養のため以前住んでいたリンジーの農場の近くの一家にお世話になり、健康を取り戻します。

トロントに戻ると、撃ち落とされた鳥をみて、絵の中でよみがえらせようと死骸を調べながら絵をかきあげたところ、父親がその絵をみて、画家になるように命令。
2年間肖像画のスタジオで手伝いをしながら、オンタリオ美術学校で学び最高成績をとり、父親にたのんでロンドンで本格的に絵を学ぶことにします。絵をかくもの好きだったので、本気で画家になるつもりだったようです。

父親から1年間の援助がうけれることになったアーネストはロンドンで美術の名門ロイヤル・アカデミーを受験。最初の年は落ちたものの翌年首尾よく合格しました。ロイヤル・アカデミーの特権でロンドン動物園に無料で入れるようになり、スケッチに通いつめます。
大英博物館にもスケッチに毎日通いましたが、そこに200万冊の博物学の本があることを知り、本来21歳からしか閲覧できないそこに19歳ではいるため、皇太子とカンタベリー大主教に手紙を書いて会員証を手に入れます。
昼は博物館で模写、夜は10時まで博物学の本を読み漁る生活が続きます。一方でお金がなく、食事は一日一枚のパンと1杯のミルクかコーヒー、服はボロボロ、おなかペコペコの生活が続きます。
学校では鳥の絵が2枚も優秀作と認められ、画廊に飾られるほどでした。
しかし、アーネストの生活を見かねた知り合いが母親に生活をしらせ、母親は手紙でアーネストを呼び戻します。

家で健康を取り戻したアーネストでしたが、21歳になったアーネストに父親はこれまでの養育費537ドル50セントを返すようにいいます。
シートンは挿絵画家として食べていくために売り込みに行き、仕事をしていましたが、兄がマニトバに誘い、家畜が高く売れるというので、シートンは家畜を買ってマニトバに向かいました。
父親にお金を返すのはまだあとでいいと思ったのです。
このとき車窓から一匹のオオカミが大勢の犬と戦っている姿をみて、のちに「ウィニペグ」の狼を書きました。

兄たちと開拓者の暮らしをしながら、フィールドノートをつけてのびのびと暮らしますが、父親が兄のところを訪れたとき、「まだ遊んでいるのか、借金はいつ返すのか」となじられ、ニューヨークで挿絵の画家として暮らすことを決意します。

ニューヨークについたシートンの所持金は2ドル70セント。公園のリスがクラッカーをもらうのをみて「リスになりたい」と思ったそう。
友人のつてで暮らすところを確保して、絵の売り込みを続け、印刷者で画家として定職に就きます。人生でサラリーマンだったのはこのときだけだそうです。
同時に作家として作品を発表。実体験に元づいた動物作家は初めてで、雑誌にたまにのるだけでしたが、評判は良かったようです。
しかし、大都会の生活では野生動物にあえず、なじめませんでした。
そんなとき、博物学者のメリアム博士から「アメリカ鳥類学連盟」に参加しないかとの誘いがきて、カナダに帰ることを決意。
帰り道でメリアム博士を訪ね、絵の注文をうけたり、博士のつてでトロント博物学会で講演したりしました。シートンの評価は高かったようです。研究チームの探検隊に選ばれたりしましたが、マニトバまで知らせが届くのが遅く参加できませんでした。

マニトバでは沼でおぼれかけたり、美しいヘラジカを仕留めた後、深い後悔に襲われるなど、のちに本になる貴重な体験をしました。
両親のもとに戻り、鳥類の研究をまとめようとしますが、父親が「25歳ににもなって、売れない本ばかり書いてぶらぶらしている」となじり、再びニューヨークで働くことにします。今度は働いてお金を貯めたら西部に戻る決意をしていました。
スケッチをセンチュリー・マガジンに持ち込んで首尾よく5000ドルの仕事をみつけ、仕事を終えるとメリアム博士あらがアメリカ自然史博物館の専属画家に誘ってくれたのにもかかわらず、西部に戻ってしまいます。

1886年カナダ西部で大自然に囲まれて暮らし、ネイティブ・アメリカンらと友人になったりしていましたが、関節炎で歩けなくなり、兄のジョゼフが始めたオンタリオ湖のほとりの自然公園の管理人になってはたらきました。しかし経営がうまくいかず、売られることになります。

アーネストも新しい生活をもとめて、画家として成功するためにパリにわたることを決意。父親に借金の残金を返すと、パリのジュリアンズ・アカデミーに入学します。
オオカミの絵でグランド・サロンに入選してよいスタートを切りますが、写実性をもとめるあまり、本物の骨を公園にまいてスケッチして警官に人殺し呼ばわりされたりします。しかし写実性がありすぎてうけず、グランド・サロンでは落選が続きました。一方でこのとき調べたことをもとに本を書いて出版しています。
しかし作品を評価する人はいて、のちのアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトもシートンの狼の絵のスケッチを買っています。

このころパーティであったニューメキシコの農場主から頭のいいオオカミロボの話をきき、何か月もかけて捕まえました。このときの体験をもとにしたのが「コランボーの王」という本です。

フランスへ帰る船の中でグレイス・ギャラティンと知り合い、1896年結婚。これまでの動物物語をまとめ、のちに「シートン動物記」といわれるシリーズが出版され、すばらしい挿絵とリアルな内容がうけて人気シリーズとなり、講演をたのまれるようになります。こちらも評判となり、敏腕マネーシャーj・ポンドと組んで1年5か月の講演旅行を行い、これがさらに本の売り上げをおしあげ、シートンは莫大な収入を得ます。

1900年ニューヨーク郊外に広大な土地を手に入れます。
子どものころからの夢がかない、自然の中で動物と暮らす生活を手にいれたのです。

しかし、近所の子どもたちのいたずらが激しかったので、シートンは学校に出向き、子どもたちを金曜日に学校が終わってから月曜日に学校がはじまるまで自分の土地に招待しました。持ってくるのは古毛布2枚。ここでキャンプを重ね、次第に隊長が決まり子供たちは責任感と勇気を持ち、集団生活をするようになります。のちにボーイスカウトに発展。1910年シートンはアメリカ・ボーイスカウト初代団長をつとめました。

有名になってからは、フォードから渡り鳥の保護をもちかけられ、活動したりしました。
一方で学位のないシートンを揶揄する声もあり、ルーズベルトの勧めで学問的な本を書くことにします。このために北極に7か月の探検旅行にでかけ、この調査研究をもとに学問的な本を書き、博物学の賞や、バローズ・メダルとエリオット・ゴールドメダルを受賞します。

その後も講演で町の近くに小さな保護区をつくることを提案。共感する人々の力で実現していきました。
1930年シートンは家を売り払い、ニューメキシコ州サンタフェ近くに広大な未開な土地を購入。そこで1946年10月23日86年の生涯を閉じ、遺言通り灰が飛行機から敷地にまかれました。



シートン (学習漫画 世界の伝記) (集英社版学習漫画 世界の伝記)

シートン (学習漫画 世界の伝記) (集英社版学習漫画 世界の伝記)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2003/09/26
  • メディア: 単行本



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ジョイ・アダムソン 自然を愛した「野生のエルザ」の作家 [人]

読み聞かせ時間 小6男子自分で読んで20分
ウケ度 特に感想はなかったみたい
印象度 いろいろすごい人だったみたい

ジョイ・アダムソンは1910年1月20日オーストリア生まれ、本名はフリーデリケ・ビクトリア。
母方の一族がたいへん裕福で、広大な敷地に15人もの親戚の子どもがあつまって夏休みを過ごしていました。いとこたちと思い切り遊んだり、将来なりたいものをいいあったり、楽しく過ごしました、中でも曽祖父が好きだったようです。

12歳のとき両親が離婚。母親はすぐに再婚し、ジョイと姉トラウテは母方の祖母オーマに引き取られ、ウィーンに住むことになります。夏休みを先祖の広大な領地で過ごすのは変わりませんでしたが、15歳のとき進められてノロジカを撃ち、スポーツのために美しい動物を殺すことに罪悪感を覚えたため、一生スポーツのために動物は打たないと誓いをたてました。

17歳のときピアニストを志しますが、手が小さいので断念。絵の勉強や洋裁の学校にいったり、好奇心旺盛な性格で、タイプライターや速記、歌のレッスンや乗馬、彫刻、デザイン、写真などいろいろな技術をみにつけました。でも社交ダンスやパーティは好きではなかったようです。

医学も志ますが、数学や物理化学などの受験勉強が苦手で苦戦していたところ、アフリカのケニアに住む友人からの誘いがあって、アフリカにわたります。
船上で知り合ったスイス人の植物学者ペーター・バリーと親しくなり、カイロ観光に一緒にいったりしました。
ふたりは1938年結婚。すっかりアフリカが気にいったジョイは夫の植物調査についてアフリカにすみつきます。
キャンプしながら象の足跡にたまった泥水をのんだり、夜露で湿った草の上にシーツを引き回しで水を確保したり、現地人から汁の出る木を教わったりしました。夫のために植物の絵もかきました。
この絵が評判になり、ジョイはアフリカの植物の本に挿絵をかくことになります。

ケニアで数年を過ごしたころ、クリスマスパーティで、将来の夫ジョージ・アダムソンに会います。ジョージは駱駝でパーティ会場にあらわれました、野獣局に勤め冒険家として有名だったようです。
ふたりは惹かれあうようになり、ジョイは悩みますが、結局ペーターと離婚、ジョージと結婚します。

夫の仕事は狩猟監視官で、人間をおそう動物を殺したり、密猟者を取り締まったりしていました。ジョイも次第に野生の動物に囲まれることになれていきます。旅をしながらの仕事になることも多く、野生動物のあかちゃんを保護して育てたこともありました。
1949年ジョイの絵がケニア政府に認められ、部族の絵をかくしごとをまかされ、6年かけて辺境をまわりやり遂げます。

大仕事が一段落した1956年エルザたち赤ちゃんライオンがジョイのもとにやってきます。
末っ子で体も小さいエルザをジョイはとてもかわいがりました。5か月になると体格も大きくなり、他の2匹は動物園にひきとられますが、エルザだけはジョイの希望で手元に残すことになりました。

2年後、エルザは外で一晩すごしたり、像の群れをおいまわしたり、すっかり一人前です。しかし追いかけていた像が村に入り、家をつぶしたりしたため、住民から苦情が来ます。夫はエルザを動物園にいれようとしますが、ジョイは自由に生きてきたエルザが閉じ込められることに抵抗を覚え、野生に返す道を選びます。

ふたりはエルザをつれてキャンプをはり、少しずつエサを減らしたり、雄ライオンに近づけたりしてみましたが、あまりうまくいきませんでした。最終手段として1週間置き去りにしますが、戻ると1週間なにも食べていないエルザが現れます。ジョージはあきらめて動物園に入れようとしますが、ジョイは反対。
ふたりは休暇を延長して他のサバンナにエルザをつれていきます。置き去りにされたあとのエルザは次第に野生に戻り、狩りをするようになり、何日も返ってこなくなります。
ジョイはそんなエルザの様子を文章に書きとめます。

ジョイたちはエルザを自然の中で自活させ、ときどきごく短い期間に同じところにキャンプをはりました。野生の雄ライオンと結婚した後もエルザはキャンプを訪れ、ジョイと親子の情をたしかめていました。

ジョイは書き上げたエルザの原稿をロンドンの出版社に持ち込み、出版された「BORN FREE」は世界中で翻訳されたベストセラーとなりました。

その後も夫妻とエルザの交流は続き、なんとエルザが出産した後も子供たちをつれて夫妻を訪ねてくるほどでした。ジョイはエルザの子どもたちを決して抱きませんでした、野生に戻すのが難しくなるためです。
1961年子供をうんで一年後エルザがなくなりました。こどもたちが野生化して近くの村の家畜を襲ったので、二人は子供をタンザニアの国立公園に移しました。

その後ジョイは世界各地で公演を行い自然保護を訴えます。1969年には「エルザ野生動物基金」を設立。野生動物をすくう団体です。

エルザの映画もつくられ、音楽部門でアカデミーを受賞。
家にはたくさんのファンレターが届くようになります。ジョイはエルザの物語を通して野生動物保護への認識が変わることを喜んでいました。

映画の撮影中にジョイは若い雌のチーターを育て始めます。
「ピッパ」と名付けられたこのチーターは人間に育てられましたが、ジョイによって野生に戻され、4回の出産をしました。ジョイはピッパについて2冊の本を書いています。

1975年には「エルザ自然保護の会」が日本で立ち上げられ、ジョイも日本にやってきました。

1977年ヒョウのペニーがやってきます。エルザはこのヒョウをそだて野生に戻すつもりでした。
しかし1980年現地人との争いにまきこまれ69年の生涯を閉じます。遺骨は灰にされ、遺言通りエルザとピッパの墓にまかれました。
好奇心旺盛で、やりたいことを全部やるのにはあと50年の寿命がほしいというような人物で、その生涯のほとんどを野生動物の近くで過ごした人でした。



ジョイ・アダムソン 自然を愛した「野生のエルザ」の作家 (学習漫画 世界の伝記)

ジョイ・アダムソン 自然を愛した「野生のエルザ」の作家 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 高瀬 直子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1998/03/27
  • メディア: 単行本



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マリー・ローランサン 「パリの美神」とよばれた画家 [人]

読み聞かせ時間 小6小3二人とも自分で読んで20分くらい
ウケ度 感想はきいていません。
印象度 結局どういったことを考えていたのかはっきりしなかったあたりが生き抜けた理由でしょうか。

マリー・ローランサンは1883年パリのシャブロル街で、私生児として生まれました。母ポーリーヌ・メラニー・ローランサンは妻子のある男性アルフレッド・トゥーレと恋愛関係にあり、マリーはその子どもでした。
母は家で刺繍や服の仕立てを仕事にしていて、父はときどき土産を持って訪ねてきていました。しかし基本的には母と二人の静かな生活だったようです。教養があって歌のうまい母をマリーはとてもすきだったようです。父については1889年のパリ万国博覧会にいったのが唯一の楽しい思い出で反発することが多かったようです。しかし父の援助でマリーたちの生活は裕福であり、マリーは高級住宅地に住んで上流階級の娘たちの通うリセにいくことができました。卒業後に働かずに絵の勉強ができたのもそういった事情があったようです。
マリーは成績はよくありませんでしたが、繊細で美しいものが好きなマリーは同級生たちがなによりも好きだったようです。ジャンヌ・ケリーは学校時代の数少ない友人でした。
母はマリーに大学に行って教師になる道を選んでほしかったのですが、マリーは絵が好きで、画家になりたいといい、19歳の時許してもらい、デッサン学校に通うようになります。ここでジョルジュ・ブラックにあって、才能があるといわれます。「洗濯船」というのちに有名になるアトリエのメンバーでもありました。彼の誘いでアンベール画塾に通うようになります。ここでジョルジュ・ルバーブやに会います。
アンリ・ピエール・ロシュは若く裕福な美術愛好家で、彼はマリーの才能を認めその絵を購入し、世にだすのにおおいに力添えしました。
ブラックに連れられて「洗濯船」にも出入りするようになり、マックス・ジャコブ、パブロ・ピカソ、アンドレ・サルモンらと親交を結びます。ただ、ピカソの恋人フェルナンドとは何かと相性が悪かったようです。
マリーは少女のように自由で時には本当に縄跳びしながら町を行くような子供っぽいけれぼ無邪気で魅力的な女性だったようです。そんな彼女を見たピカソはギヨーム・アポリネールという当時駆け出しの詩人・美術評論家とマリーの相性を見抜き、二人を引き合わせました。ピカソの予想通り二人は恋に落ちます。
ふたりの肖像を画家のルソーが残していますが、それはルソーを励ます会をピカソたちが開いたとき、マリーが酔っぱらって料理に突っ込んで、それがかえってルソーをご機嫌にさせた、そのお礼に書かれたものだそうです。本人よりかなり太っている女神にかかれています。
ギヨームと付き合っている間にも、女性らしいやわらかい画風の独特の色使いを用いた画風を完成させていきます。恋人や仲間が新聞などで紹介され、ローランサンは職業画家としての立場を築いていきます。
1911年、ギヨームがルーブル美術館の「モナ・リザ」盗難事件に巻き込まれ逮捕されます。母も詩人や画家など浮ついた人と付き合うなといい、それ以前からすれ違いが多くなっていた二人は自然とわかれたようです。
1913年母ポーリーヌが51歳で突然なくなり、マリーは傷心のあまり絵も描けず、何度か旅行にも出かけます。友人たちがギヨームとの仲をとりもとうとしたこともありますが、うまくいきませんでした。このころロシュの誘いで出かけたパーティでオットー・フォン・ベッチェンと出会います。彼はドイツの貴族で画家でもありましたが、遊び人でもありました。オットーの巧みな扱いにマリーは心を癒され結婚してしまいます。
1914年に二人はパリで結婚し、マリーがドイツ国籍になった直後、第一次世界大戦が勃発、二人は敵国同士になり、中立国のスペインで5年の亡命生活を送ることになります。最初は優しかったオットーはすぐtに遊びまわるようになり、さみしさからマリーはたくさんの手紙を友人たちに送っています。亡命中の作品はしずんだ色調になっています。
1916年志願兵になっていたギヨームは爆弾のため負傷。一時は回復したものの対戦終結前にスペイン風邪で38歳の若さでなくなります。マリーは亡命先で電報で知りました。ニコル・グレーは危険を冒して亡命先のマリーに絵を売った代金や手紙や荷物を送って援助してくれていました。
終戦後マリーはパリに帰りたいと思っていましたが、ドイツ国籍のためなかなか許可がおりませんでした。マリーたち夫婦は夫の実家などを転々としていたようです。
1920年にマリーの活動の甲斐があって、入国許可がおりますが、オットーはついてきませんでした。二人は1921年に離婚します。
パリでマリーを待っていたのは流行画家としての輝かしい生活でした。展覧会もうまくいき、肖像画の注文が殺到、女性らしい色使いや詩情あふれる画風が戦後の時代にマッチしたこともあるようです。唯一服飾デザイナーとして活躍していたココ・シャネルはマリーの肖像画が気に入らないと返してきて、マリーはこの絵を自分で引き取りました。仕事は演劇やバレエの舞台美術にも広がり、順調でしたが、ニコルも結婚してしまい、心の空白をうめてくれるものをマリーは求めていたようです。
1925年、20歳で女中に来たシュザンヌ。モローをマリーは娘のようにかわいがり、家事一切をまかせることにします。シュザンヌはよくマリーに尽くしましたが、一方で自分の気に入らない人をマリーに取り次がなくなり、友人や芸術家の間に溝をつくる面もあったようです。仕事がたくさんあったおかけで、世界恐慌の時代も贅沢をしてすごしたマリーでしたが、1937年53歳でレジオン・ド・ヌール勲章をうけたころには展覧会の評判もおちて、人気は翳りをみせていました。
1939年第二次世界大戦がはじまり、1942年にはパリがドイツに占領されたため、マリーはアパートを追われ、マスラン街の小さな館で質素な暮らしをしていたようです。当時は配給だったためでした。
1944年パリは解放されましたが、アパートに居座った人たちと裁判になり、戻れたのは9年後でした。また友人のマックス・ジャコブはナチスの強制収容所で亡くなりました。
晩年のマリーは社交上のつきあいもあまりせず、家に引きこもり、創作活動もほとんどしなくなっていました。絵は想像の中で書いた優美な少女が多くなっています。
心臓も悪化したため、死後のことを考えて30年間使えてきたシュザンヌを養女にし、手紙の片づけを始めます。1956年6月8日自宅で亡くなっているのをシュザンヌが発見し、遺言どおり白いドレスを記せられ、手に赤いバラとギヨームとの手紙の束をだいた姿にされ、真っ先にニコルがよばれて対面しました。

わがままで、むじゃきで、贅沢が好きで、美をなにより愛した72年の人生でした。


マリー・ローランサン 「パリの美神」とよばれた画家 (学習漫画 世界の伝記)

マリー・ローランサン 「パリの美神」とよばれた画家 (学習漫画 世界の伝記)

  • 作者: 千明 初美
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1996/11/22
  • メディア: 単行本



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ケネディ―理想を追求したアメリカの大統領 学習漫画 世界の伝記 [人]

読み聞かせ時時間 小6男子自分で読んで25分
ウケ度 ちょっと難しいところがあったみたい。スポーツ選手の伝記と違うからね
印象度 意外と穏健な人だったんですね。9人兄弟はびっくり

1917年5月29日。ジョン・フィッツジェラルド・ケネディはボストン郊外ブルックラインの自宅で生まれました。
父親は25歳で銀行の頭取になった実業家。母は下院議員でボストン市長を務めた人物の長女。双方ともアイルランド系でした。二つ年上にはジョゼフ・パトリック・ジュニアがいました。

小さいころは背骨が悪く病気がちでしたが、寝込んでいるときは人一倍本をよんでいましたが、元気になると体を動かすのがすきで鳴けず嫌いな少年でした。

兄弟は9人いてみな仲がよかったそうです。
父親は「一番になれ、負け犬はいらん」が信条で、つねに全力を出すように強く求めました。
母親は教育熱心で、食卓でいろんな問題を出しては子供たちに答えさせていました。

アイルランド人の祖先がアメリカに渡ったのは19世紀中ごろで、理由は飢饉でした、宗派もカトリックです。
しかし、アメリカには1620年に宗教の自由をもとめてメイフラワー号を筆頭に移住した人々がいて、政治や産業を握っていたため、アイルランド人はあまりよい仕事につけませんでした。
自由と平等をうたうアメリカの独立を信じて、ケネディたちの曽祖父もたる職人になって懸命に働きますが、35歳で貧乏なまま亡くなります。祖父は小学校しかでていませんでしたが、州の議員にまでなり、父親は事業をひろげ、アメリカ有数の大金持ちになったのだった。しかし金だたでは人に尊敬されないと感じていたし、アイルランド人に対する差別もあったようである。

1926年一家は父親の仕事の関係でニューヨークに移り住みます。
ジョンは、成績にはばらつきがあるものの、友人の多い人魅力的な子どもだったようです。
父親は「ケネディ家の人間は1番でなければならない」とハーバード大学にいくようにいいます。
兄は成績優秀でしたが、ジョンはそれほどではなかったのです。
それでも何とか私立の名門チョート校に合格しますが、学校生活では問題児で退学になりそういなります。しかし呼び出された父親がジョンの学友たちにつかまり、みなの懇願と父親の説得で退学をまぬがれ、それからも勉強にも打ち込むようになります。
一度はプリンストンに入ってから、再度ハーバードを受けなおして合格。
スポーツはずっと好きで一時やりすぎて持病の背骨をいためたこともありました。
大学のころは世界恐慌があり、ジョンはジャーナリスト志望だったようです。

1937年父が駐英アメリカ大使に就任。ずっとルーズベルト大統領(ニューデール政策の人)を支援してきたのでした。ジョンは在学中から父のためにヨーロッパ視察をおこない、ナチスドイツがやがてヨーロッパ全土をほしがることを予想して父に伝えますが、父は信じてくれませんでした。
しかしドイツはポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発。この失敗で父は大使をやめることになります。
ジョンはこの経験をもとに卒業論文をまと、それは本になりヨーロッパでも評判になります。

兄のジョゼフは学生のまま州の議員に当選。そのご海軍に入隊。
第二次世界大戦では、ジョンは背骨の持病をおして従軍。魚雷艇の艇長となり南太平洋勤務となります。
しかし、ガダルカナル沖で日本の駆逐艦の体当たりをうけ、艇は沈没。ジョンの判断で海に飛び込んで全滅は免れたものの、味方と連絡がとれなくなります。生き残った11名はジョンの指導のもと島から島へ泳ぎ渡り、なんとか現地人をみつけ救助してもらいます。ジョンのこの行動は部下を救った英雄として新聞や本にのります。

兄のジョゼフはこれに奮起、帰国間際になって手柄をたてようと危険な作戦に志願して命を落とします。
ジョンは兄の夢をついで政治家になることを決意します。

1946年下院議員に立候補。ケネディ家の人脈と財力で華やかな選挙戦がくりひろげられます。一方でジョンはパーティを抜け出して街で市民と対話するなどして、人を惹きつける資質を発揮しました。
こうして集まった多くの仲間の助けもあり、29歳で連邦下院議員に初当選。
しかし、そこでは思う存分力をふるえないと感じたため、上院議員に立候補します。
ボストンの上院議員はライバル候補はロッジ・ジュニアといい、人気のあるアイゼンハワーと懇意にしており、選挙戦は厳しいと思われていたからです。
この選挙戦から司法省にいたロバートが選挙運動を指揮してくれるようになります。
また、このとき取材にきたジャクリーン・ブービエはのちにジョンの妻になります。
ジャクリーンは背骨の痛みをこらえて人々に笑顔をみせるジョンの意志の強さに感動したのです。
ケネディは選挙に勝ち、1953年にはジャクリーンと結婚します。ジャクリーンはフランス系の名門の出身で留学の経験もあり外交面でジョンの助けとなりました。

このころから最終的には大統領になることを考えていましたが、持病が悪化、手術をうけることになります。
手術後の休養中に、ジャーナリストの夢にけじめをつけるため「勇気ある人々」という本をかき1957年にピュリッツァー賞を受賞。

1956年民主党の副大統領候補選にでますが敗退。しかし4年後をめざして自家用機で各地を演説したり、新聞や雑誌に積極的に意見を発表。精力的政治活動を行い1958年再び上院選挙で圧勝。
1960年民主党の4人の大統領候補の一人となります。

人々はケネディは若すぎるとか、アイルランド系だといいましたが、ケネディは自分には14年の議員生活があり、ルーズベルトやトルーマンと同じだ、また43歳が若すぎるならジェファーソンは独立宣言をかけないし、ワシントンは独立戦争を戦えないと反論、みごと大統領候補となります。
この選挙戦で「ニューフロンティア」という言葉を使い、これがアメリカに広くうけいれられました。
共和党の代表候補ニクソンは8年間副大統領を務めたベテランで知名度も抜群でした。
しかし、テレビ討論会では若々しくいきいきとした演説をするケネディが圧倒的支持をうけます。
また南部でキング牧師が捕まったとき、いち早くケネディが動いて釈放。これにより多くの黒人が役所におしかけ登録をして選挙にいきました。
このときは11万票の僅差でケネディは勝利します。史上最年少の大統領でした。

就任式の朝、ケネディはカトリック教会で礼拝をすませ、ケネディ家に伝わる聖書に手をおいて「たいまつの火は新しい世代にひきつがれました・・・」と宣誓し、歴史に残る名演説といわれる就任演説をおこないます。
「国があななたたちになにをするのか問うのではなく、あななたたちが国のためになにができるのかを問うてください」「世界のみなさん、アメリカがあななたたちになにをするのかを問うのではなく、人類の自由のためともに何ができるのかを問うてください」

ケネディは学者や実業家、弟のロバートなど自分のためのブレインを揃えます。それは共和党員のフォードの社長までいる顔ぶれで、彼の人脈がうかがえました。
ブレインの協力でニューフロンティア政策が実行され、そこには公共住宅、最低賃金引き上げ、スラムの再開発など困っている人たちへの支援が多く含まれていました。海外への支援もおこなわれました。また有人月面着陸を進めます。ケネディは下院議員だったころからの夢を実現させていきます。
しかし、ソ連を中心とした社会主義国との対立がケネディを苦しめます。

キューバでは亡命キューバ人を使ったカストロ政権に対する反乱がおきますが、その背後にはアメリカのCIAの関与があり、それは以前のアイゼンハワーの作戦でしたが、ケネディは自分の在任中の事件だからもと謝罪しました。世論は責任感の強い人として好感をもったようです。

当時のソ連の首相はフルシチョフでドイツをめぐって対立していましたが、ソ連は一晩でベルリンの壁をつくり、アメリカも1500名の軍をおくってにらみ合いが続きます。
1962年キューバにソ連の核ミサイルがもちこまれるという情報があり、ケネディは海上封鎖と大陸弾道弾ミサイルの照準をキューバとソ連に向けて対抗、同時にフルシチョフに対して核戦争の恐ろしさを訴えたといいます。ソ連の船団は引き上げ、危機は回避され、以降アメリカとソ連のトップ専用の直通回線がひかれることになります。
1963年にはアメリカ・イギリス・ソ連の間に部分的核実験停止条約が結ばれます。

国内では差別問題を解決しようと活動。一部の組織からデモや火炎瓶による反発をうけます。
しかし、ケネディは軍の力を借りてでも差別問題とは徹底的に戦う姿勢を示します。
差別をなくすために公民権法案を議会に提出、それは彼の死後通過しました。

ケネディは大統領として国民とむきあい、その声をきいていました。国民からの人気も非常にありました。
しかし、1963年11月22日テキサス州ダラス。翌年の大統領選挙にそなえてテキサスに来たケネディはオープンカーでパレードをしていました。午後0時半突然銃弾が大統領の頭部に命中。ジャクリーンは果敢に夫をかばいますが、ケネディは頭を打たれてなくなります。この日は初めての衛星テレビ中継が行われていた日でもあり、日本に流れた最初の映像はケネディ暗殺のニュースでした。
この死については大統領に昇格したジョンソンが、遺体写真を2039年まで公開しないと決めたり、犯人とされるオズワルドの単独の犯行にしては銃弾の跡が変だったりしたようですが、すべては明らかにされませんでした。
葬儀は国葬として行われ、アメリカ中の人々があらためて深い悲しみにつつまれました。

ケネディの死後、アメリカはベトナム戦争の泥沼に引きずり込まれ、長引く戦争は若者たちの心をむしばみ、麻薬や犯罪が広がりました。
1968年にはキング牧師が射殺され、同じ年にロバートが射殺されます。

ケネディが大統領だった期間はおよそ1000日でした。


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